- クリスチャンが仏式の葬式に参列して良いの?
- クリスチャンは数珠・焼香しない?線香はあげないの?
日本でキリスト教の信者として生きていくのは、なかなか大変なことがあります。
何をするにしても、周りの人に自分の気持ちや考えがうまく伝わらず、外側に表れることだけで判断されがちだからです。
そのため、クリスチャンも、「お寺でのお葬式に行っても良いのかな?仏式の葬式に参列して良いかな?」「お数珠を持ったらダメなのかな?」「お線香をあげないと失礼かな?」と、決まりごとのように考えてしまいがちです。
こういった悩みについて、一緒に考えていきましょう。
クリスチャンが仏式の葬式に数珠・焼香しないのは失礼という意見
宗教儀式か一般的なマナーか
信仰に基づいて、焼香や数珠を控えて、線香をあげない日本のクリスチャンは確かにいます。
例えば、故人や遺族への敬意は十分に示しつつ、自分の信仰と矛盾しない方法で弔意を表すことが多いです。お焼香の代わりに黙祷を捧げる、深々と一礼して故人を偲ぶなどです。
なぜなら、焼香は人とのコミュニケーションだという認識よりも、他の宗教儀式に参加することになるという意識が強いからです。
例えば、お金を捧げる行為や花を渡す行為は、宗教的な意味合いを持たず、相手に対する思いやりや感謝を示す行為として受け入れられることが多いです。
ただし、焼香について「煙をたく行為はアロマと同じで、宗教的儀式というより一般的な行為だ」という見方もあります。数珠なども同様です。
讃美歌と数珠・線香・焼香との比較
参考として、キリスト教の葬儀では讃美歌を歌いますが、これは死者に向けてというより、創造主である神の御業を称えるものです。教会では通常、クリスチャンでない方にこの讃美歌への参加を強制することはありません。
この例は、宗教的な儀式と一般的なマナーの区別、そして相互の尊重について考える際の参考になるかもしれません。
「祈り」と「人との対話」の違い
キリスト教では、祈りは神さまに対して行うものであり、仏教の儀式(焼香や線香、数珠)は仏や故人の魂に対するものなので、上述した通り、信仰上控える人が多いです。
ただ、仏式の葬儀に参列する人の中には、それを宗教的な儀式というより、慣習として受け入れ、周囲に合わせて形式的に行う人も少なくありません。
しかし、信仰心の篤いクリスチャンにとっては、そのように割り切ることが難しいことが多いのです。これは、単に「祈りは人に向けるものではない」という認識があるからだけではなく、例えば、ペットに「おはよう」と声をかけたり、野菜を「お野菜さん」と呼んだりするのは、気持ちを表現する一種の愛情表現や言葉遊びですが、それはあくまで宗教的な「祈り」とは異なります。
仏教的な考え方では、故人の魂が現世に関わり続けるという前提があり、焼香や供養はその魂に対する働きかけとされます。つまり、死者に祈ることは「故人の存在を前提にした行為」となるため、ある種の対話のようにも見えます。
キリスト教においては、死者はすでに神のもとにあり、地上の人間が直接関与できる存在ではないと考えているので、死者ではなく神さまと対話をするわけです。
クリスチャンが仏式の葬式に参列して良いか?
そもそも「葬儀」は宗教儀式としての側面と、社会的な儀式としての側面を持ち合わせています。
遺族にとって、大切な人との最後の別れを多くの人々と共に過ごすことは、深い慰めとなります。そのため、クリスチャンが参列することは、人としての思いやりの表現であり、むしろ望ましい行為とも言えます。
クリスチャンとして参列する際は、宗教的な儀式への直接的な参加は控えつつも、故人を追悼し、遺族に寄り添う気持ちを示すことができます。
ただし、参列の仕方については、自身の信仰を保ちながら、いかに適切に弔意を示すかを考える必要があります。
上述した通り、焼香の代わりに黙祷を捧げるなど、双方の立場を尊重した対応を心がけることが大切です。このような配慮ある行動こそが、真の意味での信仰の実践といえるでしょう。
まとめ
今回は、クリスチャンが仏式の葬式に参列して良いか、数珠・焼香しないのか、線香あげないのかなどを解説しました。