葬式の賛美歌といえば、「主よみもとに近づかん」が思いつく人が多いのではないでしょうか。
特に映画タイタニック、フランダースの犬、銀河鉄道の夜などでも有名なシーンがあります。
今回は、この葬式で歌われると言われる「主よみもとに近づかん」歌詞の意味について解説したいと思います。
主よみもとに近づかんの歌詞と動画
youtube動画として有名な加賀谷玲さんの主よみもとに近づかん 讃美歌320番の動画です。
- 主よ みもとに 近づかん
登る道は 十字架に
ありともなど 悲しむべき
主よ みもとに 近づかん - さすらう間に 日は暮れ
石の上の 仮寝の
夢にもなお あめを望み
主よ みもとに 近づかん - うつし世をば 離れて
あまがける日 来たらば
いよよ近く みもとに行き
主の御顔を 仰ぎ見ん
主よみもとに近づかんの歌詞の意味
この歌詞は、苦難や人生の旅路を通じて、神(主)に近づきたいという深い霊的な願望を表現しているため、実際に、キリスト教の葬式で賛美されることがあります。
「主よ みもとに 近づかん」
意味:「神よ、あなたのもとに近づきたい」
「みもと」は神の側、神の近くを意味し、「近づかん」は「近づきたい」という意味です。
「登る道は 十字架に」
意味:人生の道は苦難(十字架)を通る
キリスト教では、十字架はイエス・キリストの苦難と救いの象徴です。
「ありともなど 悲しむべき」
意味:(十字架のような)そのような苦難があっても、嘆くべきではない
苦難を恐れず、信仰によって乗り越えようとする姿勢です。
「さすらう間に 日は暮れ」
意味:人生の旅路の中で、時が過ぎていく
「さすらう」は流浪、放浪を意味し、人生の不確かさを表現しています。
「石の上の 仮寝の 夢にもなお あめを望み」
意味:厳しい状況(石の上で眠る)でも、なお天(神の国)を夢見る
苦難の中でも希望を失わない信仰の強さを表しています。
「うつし世をば 離れて」
意味:現世(この世)を去って
「うつし世」は現実の世界を指します。
「あまがける日 来たらば」
意味:天に召される日が来たら
「あまがける」は天に召されることを意味します。
「いよよ近く みもとに行き 主の御顔を 仰ぎ見ん」
意味:ますます近く神のもとに行き、神の顔を仰ぎ見たい
究極的な霊的な願望:神と直接向き合うことについて記載されています。
この歌詞は、キリスト教の信仰における苦難、希望、救いのテーマを美しく表現しています。人生の旅路における困難を通じても、葬式を超え、神への信頼と愛を失わない精神性が描かれていると言えるでしょう。
主よみもとに近づかんは必ずしも葬式で歌わない
「主よみもとに近づかん」は、必ずしも葬式だけで歌われる讃美歌ではありません。この讃美歌は、むしろ日本のキリスト教会で広く様々な機会に歌われる讃美歌と言えるでしょう。
確かに、葬儀や追悼の際にも歌われることはありますが、それが唯一の使用場面ではありません。
讃美歌の内容が人生の深い霊性や信仰の旅を描いているため、特定の儀式に限定されるものではないのです。
ただ、逆に言うと、葬式で使わない教会もあります。例えば、亡くなった方が好きだった賑やかな賛美を歌おう、というケースもあるからです。
例えば「Friend of God」が好き、「So will I」、「God Bless you」が好きだったというケースもあるでしょう。
キリスト教葬儀は死が終わりではない
キリスト教の葬儀の本質的な意味は、死を最終的な終わりとしてではなく、むしろ新たな始まりとして捉えます。
キリスト教の信仰では、死は:地上の生活の終わりではなく、永遠の命への移行、苦しみや限界からの解放、神との完全な交わりへの入り口です。
それと同時に、キリスト教では、死を待たずに、信仰を持った瞬間に既に神と出会っているという重要な御言葉があります。
例えば、ヨハネによる福音書(ヨハネ 17:3)には、「eternal life(永遠のいのち)」について、こう記されています:
「永遠の命とは、唯一の真神であるあなたと、あなたの遣わしたイエス・キリストを知ることです。」
この御言葉が意味するのは:永遠の命は死後に始まるものではない、神を知り、イエス・キリストを信じる瞬間に既に永遠の命が始まる、それは時間的な長さではなく、神との関係性の質を指す
つまり、クリスチャンは死を待たずに、今この瞬間から既に神と親密な関係の中に生きているということです。死は単なる通過点であり、神との関係の本質的な変化ではない点は念頭においておきましょう。
【葬式】主よみもとに近づかん まとめ
今回は、葬式で歌われるタイタニックやフランダースの犬、銀河鉄道の夜でもおなじみの、「主よみもとに近づかん」の歌詞の意味について解説しました。