アダムとエバが最初に犯した罪で、神と人との完全な関係を破壊しました。
神が食べてはならないと命じた善悪の知識の木から取って食べたことは罪ですが、ここには人間の本質的な罪性の問題が隠されています。
神は、人に次のように言われました。すなわち、一つは、すべての木から取って食べなさいという許可であり、もう一つは、善悪の知識の木からは食べてはならないという禁止でした。
ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16-17)
つまり、人が食べてはいけないのは、善悪の知識の木の実だけであり、その他のすべての木の実は食べてよいものでした。その中には、命の木(創世記3:22)も含まれます。人が命の木から取って食べ永遠の命を得ることを神は許されていました。しかし、人は食べても良い命の木を取って食べることなく、むしろたった一つだけ食べてはいけない善悪の知識の木から取って食べてしまうのです。
まず女が蛇から誘惑を受けました。
神が人にすべての木から取って食べてはいけないと禁止したかのように、蛇は女の心を揺さぶります。禁止されたことはたった一つだけであるにもかかわらず、すべてを禁止されたかのような感覚を抱きます。神が自分たちを束縛しようとしている考えがあり、ここには神への反発心が潜んでいます。現代でも人間は実際、人からたくさん良いことをされたとしても、一つでも気にいらないことがあると、それを根に持って反発したりその人に対して否定的な感情を抱くことがよくあります。
蛇の誘惑に対して女は答えますが、その答えは神の命令とは違うものになっています。
神が命じられたことは、食べてはいけないということだけですが、女は、触れてもいけないと加えています。蛇の誘惑に陥って神に対する反発心を強めた女は、次の蛇の言葉でだまされて、善悪の知識の木から取って食べてしまいます。
ここで蛇が誘惑に使った決定的な言葉は、「目が開け、神のように善悪を知るものとなる」でした。神のように善悪を知るということは、つまり、神がいなくても自分がすべてを知っている、自分が神になるということに発展します。
現代でも自分は神であると自称する人が数多くいますが、本当の神を差し置いて自分が神になりたいという欲望はアダムとエバの時代から内在していました。自分が神のように振舞うことは神が最も忌み嫌われた罪です。
アダムとエバは善悪の知識から取って罪を犯しましたが、もしここで悔い改めて神に赦しをこうたら赦してもらえたかもしれません。しかし、人はそのことを隠そうとし、隠せないとわかると、男は女に、女は蛇のせいにします。つまり、うそをつき、さらに責任転嫁するという罪を重ねます。
結局、人は神から罰を受け、労働の苦しみと産みの苦しみを味わうことになります。人だけでなく、土も呪いを受け、自然や動植物を苦しみを負うことになります。また、罪を犯す前は許可されていた命の木から取って食べることもできなくなります。
(創世記3:22)
人は罪を犯すことで、本来、許可されていたことも神から禁止されてしまいます。
原罪とは、単純に善悪の知識の木から取って食べたことに限らず、それ以前から人が持っていた、神に対する反発心、自分が神になることへの欲望が大きな罪といえるでしょう。
どこからが罪か?
アダムが善悪の知識の木から取って食べたことについて、次のうちどこからが罪でしょうか?
- 木の実を見たとき
- 木の実を手にとったとき
- 木の実を食べようと思ったとき
- 木の実を食べたとき
正解は4番の「木の実を食べたとき」です。
1番「木の実を見たとき」、誘惑を受けましたが、これは罪ではありません。人は誰でも世の中で暮らす中であらゆる誘惑を受けます。
2番「木の実を手にとったとき」も3番「木の実を食べようと思ったとき」も罪ではありません。罪までもう一歩のところまで誘惑されていますが、まだ罪は犯していません。なぜならば、神は創世記2:17で「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」と言われたからです。食べることが罪であり、そこまでの間に誘惑を受けたとしても、その誘惑を断ち切って食べなければ罪になりません。
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